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2009年02月28日
ビスケット
ビスケットの日
ビスケットとはラテン語で「二度焼かれたもの」という意味で「二度焼く」の語呂合わせ。水戸藩の柴田方庵という人が長崎周辺で外国人向けに作られていたビスケットが保存が利く食料として、安政2年のこの日留学先の長崎から水戸藩に手紙を書いたという史実。この2つのことから全国ビスケット協会が昭和55年(1980年)にビスケットの日に制定した。
また、パンの製法を学ぶ為に長崎に留学していた柴田が同藩の萩信之助に、パン・ビスケットの製法を書いた日本初の文書とされる「パン・ビスコイト製法書」を送ったのが安政2年2月28日(1855年)であることから。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 といわれているらしい。
昔はよくこのビスケットというものを食べた。
子供のころのおやつだった。
あんまり味のついていないシンプルなモノ。
そういえば、いまは、どんなビスケットがやかれているのだろうか。
海外のものから多くのものが入ってくる時代になった。
ビスケットの製法を調べてみます。
それから、想うこと。
世の中にはいろいろな人たちがいて、いろいろな出来事がある。
幸福⇔不幸
金持ち⇔貧乏
健康⇔病気
楽しい⇔不愉快
などなど、ほかにもいろいろある。
ビスケットが贅沢かそうでないか、美味しいか美味しくないかということであるように、比べることの無意味さももある。
もっというと、いまを大切にしてゆくことに、大切なものが隠されているのではないかと思う。
相対ではなく、絶対的な意味や価値を有することができれば、それは、人間にとっていかに素晴らしいことか。
人生という有限の世界を意味あることにできればと思う。
投稿者 t_butta : 18:23 | コメント (0) | トラックバック
2009年02月27日
鳥インフルエンザ
今日お目にかかる予定だった方が、インフルエンザ対策のために急遽対策本部を立ち上げるためお目にかかることが、できなかった
投稿者 t_mobile : 21:29 | コメント (0) | トラックバック
2009年02月26日
御花
ある親しくさせていただいているフラワーアーティストの方からいただいたメールの一節。
花には本当に不思議なパワーがあるようですよ。
「癒し」という言葉は手垢がついているようで、あまり?ですが
「癒し」としか表現できないような、そういった力は確実にもっているようです。
様々な方やものからいろいろな恩恵をいただいていること。
そして、それが優しさに満ちていること。
強い弱い、上手い下手、ではなくて、本質がもっているその真実。
真理と、善と、美。
それが、求めるもの。
御花は、それである。
投稿者 t_butta : 19:41 | コメント (0) | トラックバック
2009年02月25日
ものさしの違い
農業の産業化が話題になっている。
欧州も米国も、中心は家族経営。
はたして家族経営が産業化できるのか。
たぶん、工業や商業のものさしに農業を当てはめようとしても無理があるのではないか。
農業には農業のものさしがあめに違いない。
豊かな農村と農業であってほしい。
投稿者 t_butta : 23:10 | コメント (0) | トラックバック
2009年02月24日
こころ
経済収縮で、強いモノや大きいモノ、経済のチカラ、などよりも、人間の原点に立ち戻ろうという動きが出てきている。
ヒトのもっている本質に拠るしか無くなっていく、この構造変化。
ヒトの無力さを感じさせられる時である。
ヒトが全ての源であることに気付く。
そのときのヒトの本質の核心にあるモノは、こころ。
こころが、ヒトが動く中心軸でり、原動力の核心である。
投稿者 t_butta : 23:44 | コメント (0) | トラックバック
2009年02月23日
原稿
次月号の農業と経済に原稿を依頼され、執筆。
農地法の問題。
農地をだれが利用し、どのように使ってゆくかということ。
むやみゆたらに宅地にして何でもつくるというのも問題。
原稿は難しい。
んん・・・・~
投稿者 t_butta : 23:43 | コメント (0) | トラックバック
2009年02月22日
就農帰農
帰農と云うのも、農業が雇用の緩衝機能(ブァッファ)となっていることを意味する。
企業にひとが要るときには、出稼ぎ、兼業、離農というかたちで、雇用となった。
企業が不景気だからといって、農業にもひとを受け入れてくれないかということである。
それぞれが補完しあう関係である。
農業は、経済の収縮に影響を受けにくいといわるが、成長の影響も受けにくい。
一般社会より早く高齢化する農村社会は、世界のなかでいち早くその構造変化に出会う。
帰農も重要だが、その構造変化にどう対処するかが優先するべきことである。

投稿者 t_mobile : 23:51 | コメント (0) | トラックバック
2009年02月21日
日銀
日銀の役割と経済景気の話しだった。
現場の企業を毎日回られているとのこと。
金沢支店は金沢市の香林坊の中心にあり、来月3月15日に百年を迎えるという話もあった。
紙幣は、日銀が発行し、硬貨は日本国が発行している。
何より、紙幣は身近でも、直に初めて日銀の方の話を伺うくらい生活から距離がある。
信頼と信用を保ちつつ、機能や組織を理解してもらうことは大変なことなのかもしれない。
さらにアクティブに、景気回復に貢献を期待したい。
農業は幸いに、景気の伸び縮みに関係が少ないが、農村が急激に高齢化し、農業に従事する人が半減する時期が迫っていて、今までに経験したことのない大変な構造変化が今の経済危機と重なってとんでもないことになるかもしれない?

投稿者 t_mobile : 17:08 | コメント (0) | トラックバック
2009年02月20日
らしく
偽りなく、忠実に。謙虚に。
出来事は忠実に理解すべき。
仮説の意味やその矛盾、何をなすべきか。
!
投稿者 t_mobile : 01:59 | コメント (0) | トラックバック
2009年02月19日
雨水
雨水(うすい)は、二十四節気の1つ。2月19日ごろ。および、この日から啓蟄までの期間と云われている。
ここ数日、凍ってしまうくらい寒くなった。
雪もうっすら。
この時期は、そろそろ田んぼの準備が始まる。
いろいろな社会状況がつたわっているが、そいうことにかかわらず、準備がすすんでゆく。
今年の、春はどんな天気になるだろうか、いろいろと想う。
米をどうつくるか考える時である。
投稿者 t_butta : 07:56 | コメント (0) | トラックバック
2009年02月18日
苦楽は±0
ひとは、いろいろな人生がある。
良いこともあれば悪いこともある。
かならずや、良いことばかりや悪いことばかりが続くわけではない。
きっと、万人に平等に苦楽が配られる運命にあるのではないかと思う。
良いことに自惚れず、悪いことに悄げずにいるのがいい。
投稿者 t_butta : 23:00 | コメント (0) | トラックバック
2009年02月17日
後輩
九州男児。
いい男である。
義をわかっている今時の若者である。
投稿者 t_butta : 23:46 | コメント (0) | トラックバック
2009年02月16日
深谷ネギ鳥鍋
今日の昼はこれをつくった。深谷ネギがたくさんあるので、太いのを丸ごと一本刻んでいれた。からさもなく、甘い味のネギとなる。
体が温まり、小雪がちらつく今日のような日にはもってこいでした。

投稿者 t_mobile : 13:25 | コメント (0) | トラックバック
2009年02月15日
逆チョコ
初めて逆チョコなるものを贈った。
母に贈った。
しかし、いまは~食べないと!
意味もわからず、そういう返事が返ってきた。
残念。

贈り物は難しい。
折々に、何をどのように贈るか、喜んでもらいたいが必ずしもそうはいかない。
進物のマナーは、どこかで教えてくれるわけではない。
社会のいろんなひとに教えてもらいながら、ここまできた。
まだまだ、習うことばかり。
今では、歳暮も中元も様変わりしてきた。本当に贈りたい物を贈る時代となった。
弊社のお客様も、お相手の家族構成やタイミングを丁寧にご要望いただくことも多い。
まさしく、逆チョコは、その象徴だと思う。
投稿者 t_mobile : 23:27 | コメント (0) | トラックバック
2009年02月14日
男3人
3人の男でなく、男3人。
いつものメンバー。
こういうと、密談??
と思われるかも知れないが、
同窓会の事務局の職員と元職員のお二人との3人。
その時の話題。
この5年間、農業者大学校同窓会の会長を務めさせていただいた。
この間、お二人の大先輩と同じく役員をやらせていただいた。
山口の中山間と、高知の奥深い山村で農業で生きている。
この生き方こそ、農民であり農である。
村と人と地域と共に生き、うつりかわる季節を感じ、自然の恵みのありがたさを感じる。
これが普通の農民だと思う。
こんなことを云うと笑われるかもしれないが、
自分は、こんな生き方を目指したい。
この任期の5年間で大切なことを教えてもらった。
投稿者 t_butta : 03:12 | コメント (0) | トラックバック
2009年02月13日
農地政策の原稿
農業と経済という農業専門経済誌から農地法についての原稿依頼があった。
締切は、来週16日。
ん~~、今から猛勉強(^_^;)
以来は、すでにだいぶ前にあったが・・・
どなたか御指南役を!!
農地法の改正、どうなるか??
投稿者 t_butta : 02:45 | コメント (0) | トラックバック
2009年02月12日
美味しいサラダ
勉強会でせりなの坂口社長さんからお話しを伺いながらいただいた。
キャベツが美味い。
甘い。
熟成させて使っているとか。
ドレッシングも手づくり。
心のこもった美味しいサラダでした。

投稿者 t_mobile : 23:18 | コメント (0) | トラックバック
2009年02月11日
合宿
独(ひとり)り善(よ)がりではない農業を実現したいと思う。
何が生み出せるか?

投稿者 t_mobile : 18:16 | コメント (0) | トラックバック
2009年02月10日
東月
明るい、春の月のよう。
暖かい2月。
温もりを感じる季節。

投稿者 t_mobile : 22:24 | コメント (0) | トラックバック
2009年02月09日
客人
遠方よりの客人があった。
これまた、深い関係になりそうな予感がした。
客人と主人の関係は、面白い。
それこそ、主観客観とはよく言ったモノだ。
主客の立場こそあれ、その想いを交歓しあう意味は、奥深い。
深まることは、意味がある。
投稿者 t_butta : 23:23 | コメント (0) | トラックバック
2009年02月08日
マメジン
今年もマメジンという豆を作って育てる会の味噌造りがあった。
会場は、近江町市場の消費者会館。
もう11年にもなる。
今年はとても大勢だった。
印象的だったのが、初代メンバーご夫婦のお嬢さん夫婦がこられていたこと。
確か最初のころは、まだ子供さんだった。
食の文化を継承するとはこういうことかなとも思う。
昨年はも皆さんお持ち帰りの味噌はうまくいったと好評だったが、さて、今年は。
投稿者 t_butta : 23:45 | コメント (0) | トラックバック
2009年02月07日
揖保の糸
今日の昼は、播州手延べそうめん揖保の糸で、温かいそうめんをつくった。
薄味の醤油だし。
ネギにおろし生姜で温かくいただいた。
すっきりした味。
今回もまた、写真を取り忘れた(^^;)
投稿者 t_butta : 15:20 | コメント (0) | トラックバック
2009年02月06日
FRUIT LOGISTICA 2009

ベルリンで開催されているフルーツロジスティカに出展しています。
ドイツ・ベルリンはとても良い街なようです。
ドイツの方々も漬物に関心がお有りのようです。
投稿者 t_mobile : 16:44 | コメント (0) | トラックバック
2009年02月05日
ビジネスクリエイト道場
実は今日から進行役。
食の探求をするセミナー。
農商工連携と云うけれど、いま何をすべきか考えるとき!

投稿者 t_mobile : 23:36 | コメント (0) | トラックバック
2009年02月04日
椿
今日は、職業講話という授業で野々市中学に行った。
久しぶりの母校であった。変わっていなかった。
子供たちは、自分のチカラで人生を歩んでほしい。
未だに、オトナになりきれない自分がいる。

投稿者 t_mobile : 17:40 | コメント (0) | トラックバック
2009年02月03日
出稼ぎ
中国での経済悪化で二千万人の出稼ぎ農民が農村に戻っているというニースがあったが、日本も、農産は、労働力のブァッファであった。景気がいいときは、外に働きに出て、景気が悪くなると、ムラに帰り農業をするということだった。
しかし、今では、農業もなかなか難しい。機械や技術が従来のものとかわり、市場に出荷しているだけだと採算が合わないことが多い。
急にムラに帰ってきて、農業で食えるという時代ではなくなった。
食糧が不足気味の時代は、それでも良かった。
いまは、飽食の時代とも云われて久しい。
その昔、父も大工の兼業をしていた時代が10年ほどあった。
普段は母が、その農作業の細かいことをしていた。
私が、小学校のころには、早く帰ってくると、学校から帰ってきて明るいうちに、小柄な自分には大きすぎる耕耘機で、田んぼを耕したことを覚えている。
その耕耘機は共同で使っていたものだ。
農村の情景は、今は、近代的にはなったけども、家族や思いを重ね合わせることは少なくなった。
出稼ぎは、北陸では少なくはなったというより、兼業化も進んだ。
農家は、それぞれがムラの一員である。
日本の農村は、どうなってゆくのだろう。
投稿者 t_butta : 02:47 | コメント (0) | トラックバック
2009年02月02日
農業者大学校

正式に云うと、独立行政法人農業・食品産業技術総合研究機構 農業者大学校
およそ1200人が卒業した。
卒業時の就農率は9割以上。
いまでも、900人ほどが、農業に従事している。
日本の農業を牽引するために、「世界的視野で考え、地域で行動する」を理念に、昭和43年に設立された。
ここの卒業生は、著名な農業者が多いが、それよりも、集落でコツコツ農村を支える農業者を生み出しているところにある。
優れた経営も重要だが、農村を支えることが、我々にかせられた使命でもある。
そして、創学された、多摩の校舎はこの三月で閉鎖され、つくばへ完全移管される。
投稿者 t_mobile : 23:12 | コメント (0) | トラックバック
2009年02月01日
幾多郎
西田幾多郎
(1870‐1945 年)
私は何の影響によったかは知らないが、早くから実在は現実そのままのものでなければならない、いわゆる物質の世界という如きものはこれから考えられたものに過ぎないという考を有っていた。まだ、高等学校の学生であった頃、金沢の街を歩きながら、夢みる如くかかる考に耽ったことが今も思い出される。そのころの考がこの書の基ともなったかと思う。
(西田幾多郎『善の研究』岩波文庫, 昭和12 年, 1937, P.7)
幾多郎は、石川の哲学者であるが、世界を代表する哲学者である。
日本的な思想。
そして、鉛色の空を望天し、このような哲学を生み出したというと、未知への好奇心がわく。
知と実践が、新たな価値を生み出す。
梵事を極め、実践の中から、知を生み出す。
主客身分であり、主客合体となり、関係性の本質にささりこむ。
そこに新たな知が創造される。
それが愛である、と幾多郎は云っている。
経験するというのは事実其儘(そのまま)に知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。純粋というのは、普通に経験といっている者もその実は何らかの思想を交えているから、亳(ごう)も思慮分別を加えない、真に経験其儘の状態をいうのである。たとえば、色を見、音を聞く刹那
(せつな)、未だこれが外物の作用であるとか、我がこれを感じているとかいうような考のないのみならず、この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである。それで純粋経験は直接経験と同一である。自己の意識状態を直下に経験した時、未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一している。これが経験の最醇なる者である。(同上 P.13)
我々は少しの思想も交えず、主客未分の状態に注意を転じて行くことができるのである。たとえば一生懸命に断岸を攀(よ)ずる場合の如き、音楽家が熟練した曲を奏する時の如き、全く知覚の連続perceptual train といってもよい。また動物の本能的動作にも必ずかくの如き精神状態が伴うているのであろう。これらの精神現象においては、知覚が厳密なる統一と連絡とを保ち、意識が一より他に転ずるも、注意は始終物に向けられ、前の作用が自ら後者を惹起(じゃっき)しその間に思惟を入るべき少しの亀裂もない。これを瞬間的知覚と比較するに、注意の推移、時間の長短こそあれ、その直接にして主客合一の点においては少しの差別もないのである。 (同上 P.16)
思惟というものは心理学から見れば、表象間の関係を定めこれを統一する作用である。その最も単一なる形は判断であって、即ち二つの表象の関係を定め、これを結合するのである。しかし我々は判断において二つの独立なる表象を結合するのではなく、かえって或一つの全き表象を分析するのである。たとえば「馬が走る」という判断は、「走る馬」という一表象を分析して生ずるのである。それで、判断の背後にはいつでも純粋経験の事実がある。判断において主客両表象の結合は、実にこれによりてできるのである。勿論いつでも全き表象が先ず現われて、これより分析が始まるというものではない。先ず主語表象があって、これより一定の方向において種々の聯想(れんそう)を起し、選択の後その一に決定する場合もある。しかしこの場合でも、いよいよこれを決定する時には、先ず主客両表象を含む全き表象が現われて来なければならぬ。 (同上 P.24)
如何なる者が真理であるかというについては種々の議論もあるであろうが、余は最も具体的なる経験の事実に近づいた者が真理であると思う。往々真理は一般的であるという、もしその意味が単に抽象的共通ということであれば、かかる者はかえって真理と遠ざかったものである。真理の極致は種々の方面を綜合する最も具体的なる直接の事実その者でなければならぬ。この事実が凡ての真理の本であって、いわゆる真理とはこれより抽象せられ、構成せられた者である。真理は統一にあるというが、その統一とは抽象概念の統一をいうのではない、真の統一はこの直接の事実にあるのである。完全なる真理は個人的であり、現実的である。それ故に完全なる真理は言語にいい現わすべき者ではない、いわゆる科学的真理の如きは完全なる真理とはいえないのである。 ( 同上P.46)
純粋経験においては未だ知情意の分離なく、唯一の活動であるように、また未だ主観客観の対立もない。主観客観の対立は我々の思惟の要求より出でくるので、直接経験の事実ではない。直接経験の上においてはただ独立自全の一事実あるのみである、見る主観もなければ見らるる客観もない。恰も我々が美妙なる音楽に心を奪われ、天地ただ嚠喨(りゅうりょう)たる一楽声のみなるが如く、この刹那いわゆる真実在が現前している。これを空気の振動であるとか、自分がこれを聴いているとかいう考えは、我々がこの実在の真景を離れて反省し思惟するに由って起ってくるので、この時我々は己に真実在を離れているのである。(同上P.74-75)
知と愛は普通には全然相異なった精神作用であると考えられている。しかし余はこの二つの精神作用は決して別種の者ではなく、本来同一の精神作用であると考える。然らば如何なる精神作用であるか、一言にていえば主客合一の作用である。我が物に一致する作用である。何故に知は主客合一であるか。…我々が物を愛するというのは、自己をすてて他に一致するの謂(いい)である。自他合一、その間一点の間隙なくして始めて真の愛情が起るのである。(同上P.242‐243)
斯(かく)の如く知と愛とは同一の精神作用である。それで物を知るにはこれを愛せねばならず、物を愛するのはこれを知らねばならぬ。数学者は自己を棄てて数理を愛し数理其者そのものと一致するが故に、能く数理を明あきらかにすることができるのである。
美術家は能く自然を愛し、自然に一致し、自己を自然の中に没することに由りてはじめ甫(はじめ)めて自然の真を看破し得るのである。また、一方より考えて見れば、我はわが友を知るが故にこれを愛するのである。境遇を同じうし思想趣味を同じうし、相理会するいよいよ深ければ深い程同情は益々濃(こまや)かになる訳である。しかし愛は知の結果、知は愛の結果というように、この両作用を分けて考えては未だ愛と知の真相を得た者ではない。知は愛、愛は知である。たとえば我々が自己の好む所に熱中する時は殆ど無意識である。自己を忘れ、ただ自己以上の不可思議力が独り堂々として働いている。この時が主もなく客もなく、真の主客合一である。この時が知即愛、愛即知である。数理の妙に心を奪われ寝食を忘れてこれに耽ける時、我は数理を知ると共にこれを愛しつつあるのである。また我々が他
人の喜憂に対して、全く自他の区別がなく、他人の感ずる所を直(ただち)に自己に感じ、共に笑い共に泣く、この時我は他人を愛しまたこれを知りつつあるのである。愛は他人の感情を直覚するのである。池に陥らんとする幼児を救うに当りては、可愛いという考すら起る余裕もない。(同上P.243-244)